なぜ賞罰を否定するのか−幸せになる勇気


問題行動の「目的」はどこにあるか

・問題行動の第一段階、それは「称賛の要求」です。

・彼らの目的はあくまでも「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば「共同体の中で特権的な地位を得ること」なのです。

・問題行動の第二段階は「注目喚起」です。

・積極的な子どもたちは、いわば「いたずら」によって、注目を得ようとするでしょう。消極的な子どもたちは「できない子」として振る舞うことで注目を集め、特別な地位を得ようとするのです。

わたしを憎んでくれ!見捨ててくれ!

・問題行動の第三段階。ここで彼らの目的は「権力争い」に突入します。

・法に触れる問題であれば、法に従った対処が必要です。
それ以外の権力争いを察知した時には、すぐさま彼らのコートから退場する。まずやるべきことは、それだけです。

・問題行動の第四段階、ここで人は「復讐」の段階に突入します。

・かけがいのない「わたし」を認めてくれなかった人、愛してくれなかった人に、愛の復讐をするのです。

・問題行動の第五段階、それは「無能の証明」です。

・彼らは、自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手を使って「証明」しようとします。
あからさまな愚者を演じ、なにごとにも無気力になり、どんな簡単な課題にも取り組もうとしなくなる。
やがて自分でも「愚者としてのわたし」を信じ込むようになる。

「罰」があれば、「罪」はなくなるか

・問題行動のすべては「所属感」、つまり「共同体のなかに特別な地位を確保すること」という目的に根ざしている。

・彼らの問題行動は「あなたに叱られること」まで含んだ上での、問題行動なのです。
叱責されることは、彼らの望むところです。

怒ることと叱ることは同義である

・子どもたちの問題行動を前にしたとき、親や教育者は何をすべきなのか?
アドラーは「裁判官の立場を放棄せよ」と語っています。
あなたは裁きを下す特権など与えられていない。法と秩序を守るのは、あなたの仕事ではないのです。

・教育者とはカウンセラーであり、カウンセリングは「再教育」である。

・怒りや暴力を伴うコミュニケーションには、尊敬が存在しない。
それどころか軽蔑を招く。
失跡が本質的な改善につながらないことは、自明の理なのです。
ここからアドラーは、「怒りとは、人と人を引き離す感情である」と語っています。

・「変えられないもの」に執着するのではなく、眼前の「変えられるもの」を直視するのです。

自分の人生は自分で選ぶことができる

・人間が未成年の状態にあるのは、理性が欠けているのではない。
他者の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。
つまり人間は自らの責任において未成年の状態にとどまっていることになる。

・教育する立場にある人間、そして組織の運営を任されたリーダーは、常に「自立」という目標を掲げておかねばならないのです。

・感謝を期待するのではなく、「自立」という大きな目標に自分は貢献できたのだ、という貢献感を持つ。
貢献感の中に幸せを見いだすのです。

・自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料ーたとえば知識や経験ーがあれば、それを提供していくこと。
それが教育者のあるべき姿なのです。

 

まとめ

「誉めて育てよ」
「しつけで育てよ」

子育てや仕事における部下の教育としては当たり前に使われる言葉で、誰もが正しいと感じ疑いもしなかった言葉ですよね。

でも、アドラーは賞罰を完全に否定します。
なぜなら、教育を受けるものは賞罰に依存してしまうから。

「誉めてもらうためにがんばる」
「怒られないように真面目にやる」

では、結局教育者が主体になり、被教育者は受動でしかない。

そして、主体的ではないから自ら責任を取ろうとせずに問題行動に出てしまう。
これでは成長するどころか不幸な人生を歩む結果になってしまう。

教育者の責務は誉めることでも叱ることでもないんですよね。
それが逆効果になってしまう危険を常に考えておかないといけない。

教育者としての本当の責務は、教育を受ける子どもや部下が自分の責任のもとで主体的に行動するために背中をそっと押してあげることなんでしょうね。

 

  

 

投稿者: Masahiro Ito

サーフィンとマラソンをこよなく愛する自称ソーシャルサラリーマン。 自分自身がメディアとして発信できる新しい時代の波に乗るために奔走中。 伊藤人語では、読書初心者の方にポイントを紹介。 僕が薦める本に興味を持ってもらえればこれ幸いでございます。

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