考えることの中には悪魔が住んでいる
・思い詰めること、かんがえすぎることは人を迷路の奥へ、奥へと誘う魔物である。思考とはけっして健全とはいえない一種の知的遊戯であり、思案ばかりを巡らせていると不安や悔恨の種を増やすことが多い。
・思考の悪魔の中に片足を突っ込んだと思ったら、その思いをいったん止めて、何でもいい、何かしら行動を起こすことが大切である。
体は心の入れもの−心を変えたかったら体を変えよ
・体と心と頭。この三つのバランスがとれているとき人間は健全さを保つ。
・バランスだけでなく、三つの順番も重要である。まず体、次いで心、最後に頭。この順序で私たちはそれぞれの健康を担保すべきなのである。
・体は心の入れものだから、体を動かせばおのずと心も揺れる。澱んでいた心が流れ出し、動き出すのである。
「自分の得を小さくする」生き方
・分かちあうことは「自分の得を小さくする」ことだから、その限りでは損をする。しかし得を逃したから即、損をしたと考えるのは短慮というべきである。いっときの損が「天への貯金」となって、やがて利子がついて返ってくるのだ。
・独占するより分かちあうこと、利己性を増大させるよりも減少させることにより、大きな喜びを感じる心が人間の心理のうちには必ず存在しているのである。
人をまるごと信じる愚かさが足りない
・人は相手に対して、つい「for(のために)」といいがちである。「あなたのためにやっているんだ」「お前のためを思ってのことだ」。
だが、これには「してやる」という、上から目線の押し付けがましい言葉が続くことが多い。
・人間関係は本来、「for」ではなく、「with(とともに)」ですべきである。
すなわちともにいること、ともにあること。
・だまされるのを覚悟で相手を丸ごと信じる。その愚かさも人には必要だ。それは心に安らぎや大らかさをもたらしてくれる愚かさである。知には限界があるが、信は世界を包み込む。知と同じくらい、信の力を養うことにも努めるべきである。
どうすれば「個が生きる」集団をつくれるか
・人と交われば、多かれ少なかれ自分を抑える必要が出てくる。そのがまんが個人の自由を損なうのだと集団主義の弊害を指摘する人がいる。しかし、集団の中にあって初めて自分を発見することだってある。
・才能の突出した人間が恵まれるのは当たり前である。そうでない凡人もそこそこ笑顔で明るく、自分を認め、他からも認められながら生きていける。そういう社会がこれから築くべき社会であり、それは所有や独占ではなく、ともに分かちあい、助けあい、喜びあい、悲しみあうという「きれいごと」が集団化したところに生まれるであろう。
自分を越える「何か」とつながれ
・自分を超えるものとは、神仏でも宇宙でも自然でも、あるいは同じ人間であってもいいのだろう。ともかく「自分」というちっぽけな利己物を超える大きな存在、次元の異なる対象物に向かって自己を寄り添わせてみる、自己を投入してみる。
・すると、人間は心身を安定させ、生命的な根源力を活性化することができる。自分を私欲や利己から遠ざけて、人や社会のためなど大きな目的に向けて琢磨する。その自己超越性が人の器量を大きくし、幸福にもするのである。
・自己目的のためだけに生きても、ある程度のことはできるだろう。しかし、人とつながることでもっと大きなことが可能になる。人より大きな「何か」につながっていれば、さらに大きなことがなせるはずだ。
まとめ
人として、これからの時代を生きる人としてどうやって幸せに生きるかということは大きなテーマです。
競争により幸福度に優劣がつく時代は10年以上前に終わっていると思っています。
すでにモノの時代から心の時代に入っています。
心の時代に心の健康は大前提。
まずは自分自身の軸をつくり、何が大切なのかを明確にすること。
僕は心の枠組みづくりには体を動かすことが大前提だと考えています。
「体は心の器」。
体を動かすことによって、精神的に解放されて救われることは多いと感じます。
自分の枠を越えようと努力するところには健全な精神が宿るのではないでしょうか。
そして、対人関係が幸福感に及ぼす影響。
組織の時代から「個」の時代と言われて随分久しくなる。
SNSが発達している今、リアルタイムで人と人はつながることができる。
人を信じ、人の心と寄り添い、ゆるくつながる。
そうしながら、あたらしい人間関係を構築していく。
人との協力関係は自己犠牲ではなく、共創によるワクワク感。
自己実現を目指し、自分の心と体を鍛える。
その上で人との質の高いつながりを持ち、共に何かを成し遂げる。
それこそがこれからの時代の幸福のかたちなんだと感じます。